日記をつけようとパソコンの前に座ると必ずポンタが膝に乗ってくる。猫タワーでくつろいでいても、床で寝そべっていても、おれがパソコンの前に座ると必ずトトトッと走りよってきて、ピョンと膝の上にのぼってくる。喉を撫でてやると、気持ちよさそうにゴロゴロ喉を鳴らすので、そのまま膝の上から追いやることもできなくなり、可愛いなあ可愛いなあとしばらくそのままポンタの全身をマッサージして過ごす。30分もそうしていると、満足したのか飽きたのか、膝から飛び降りてノソノソ歩き去っていく。
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川上未映子『ヘブン』(講談社)を読む。
川上未映子の文章は、彼女が芥川賞を取る前、まだブログ日記が単行本(『そら頭はでかいです、世界がずこんと入ります』)として発売される前からのファンだった。
おれは関西弁のガールズトークフェチなのだが(なので谷崎の『細雪』などは何度読んでもゾクゾクするのだが)、『先端で、さすわさされるわそらええわ』『乳と卵』も、それぞれ二度ずつ読んで、とにかくあの関西弁を織り込んだ飛躍と転調と切断に満ちた文体に中毒していたのである。
『ヘブン』では、おれが中毒していたその文体は封印されて、たいへんにリーダブルな文章でほとんどウェルメイドと形容したくなるような整った物語が紡がれており、おれとしては川上未映子に期待していた「それ」を満たされずにスカされたような物足りなさを感じはしたものの(そうした物足りなさを感じるだろうなあ、と思って今まで読まずにいたのだが)、いや面白かった。
■主人公は学校でいじめられている「斜視」の「僕」。小説の冒頭で「僕」は、やはりいじめられている「貧乏」で「汚い」女の子「コジマ」に、手紙の交換をもちかけられ、それを受け入れる。物語は、「僕」と「コジマ」の手紙のやりとりを軸に進んでいく。
「僕」をいじめているのは、「クラスの中心的な存在」である「二ノ宮」とその取り巻き連中だ。「二ノ宮」について描写された箇所を引く
―≪学年でスポーツが一番できて、成績も優秀で、誰が見てもきれいだと思うような端正な顔つきをしていた。いつもひとりだけ違う色のセーターを着て、髪を肩のあたりまでのばしていた。そして色々なことに顔のきく三つうえの兄がいて、この兄弟は学校のなかでも有名だった。それだけで二ノ宮は特別な雰囲気をまとっていて、まわりは二ノ宮と仲良くなりたいと思う生徒でいつもいっぱいだった。中学に入ってからは長い髪をひとつにくくり、冗談を言ってクラスの女子をよろこばせ、女子だけじゃなくて二ノ宮が冗談を言うとそこにいる誰もが笑った≫。う、ううむ、これはなんというか、ほとんど自分のことを描かれているようだ(二つ上の兄はいないし、長髪を一くくりにもしていないが)、と感じる。
もう一人、重要な脇役、「百瀬」の登場は、こんなふうに描写されている
―≪百瀬は学校でいつも二ノ宮と一緒にいたけれど、口数は少なく、クラスメイトたちと一緒になって騒いでいるところなんかは見たことがなかった。くわしい理由は知らなかったけれど、体育の授業をいつも見学していた。二ノ宮ほどではないにしても、百瀬も誰が見てもハンサムの部類に入る顔をしていて、ふたりとも僕より十センチ以上も背が高かった。百瀬はいつもなにを考えているのかまったくわからないような表情をしていた。苛めるときも僕に直接なにかをすることはなく、いつも少し離れたところから腕を組んで立って見ているという感じだった≫。いや、こっちも、おれだよな、なんかこれ(体育は休んでなかったけど)、と感じる。
そうだ、少年時代のおれは、あきらかに「二ノ宮」「百瀬」といういじめっこ側の人間だった。
いじめっこの側のロジック、というか感受性のようなものを、小説の後半で、「百瀬」がこんなふうに語る場面がある。
≪「なあ、世界はさ、なんて言うかな、ひとつじゃないんだよ。みんながおなじように理解できるような、そんな都合のいいひとつの世界なんて、どこにもないんだよ。そういうふうに見えるときもあるけれど、それはただそんなふうに見えるというだけのことだ。みんな決定的に違う世界に生きているんだよ。最初から最後まで。あとはそれの組み合わせでしかない。(中略)
その組み合わせのなかでさ、僕たちの側で起こっていることと、君の側で起こっていることは、一見つながっているように見えるけど、まったく関係のないことでもあるんだってことだよ。そうだろ?たとえば君は目が原因で苛めを受けていると思っていた。でもそんなのは僕にとってはまるで関係がないことだった。君が受けている眠れないくらいの苛めは、僕にとってはなんでもないことだ。良心の呵責みたいなものなんてこれっぽっちもない。なんにも思わない。僕にとっては苛めですらないんだよ。僕と君に限ったことじゃなくて、考えてみればみんなそうじゃないか。思い通りにいかないことしかないじゃないか。自分が思うことと世界のあいだにはそもそも関係がないんだ。それぞれの価値観のなかにお互いで引きずり込みあって、それぞれがそれぞれで完結してるだけなんだよ≫ここで言われていることが、特に偏っているとは感じない。若い頃のおれがいかにも言いそうな理屈である。いや、おそらく、ここで言われていることは、この世界を覆っているある常識的な価値観を、とても正直に表現している。
そうした価値観に覆われた世界のなかで、「コジマ」はひとり身を汚し、その世界の在りように対抗しようと意志する。
「コジマ」の信仰者を思わせる偏執が、この世界の酷薄さを逆照し、「普通の」人々の姿を異様な様相として浮かび上がらせる。
「コジマ」の書く手紙を引用する。
≪そういえばわたしはこのあいだ、ついにお母さんの新しい人(時間的にも年齢的にも、思えば全然新しくないのですが)と、言いあいというよりも、ちょっとしたことがあって、そのついでにわたしがわたしの思っていることを言ってしまった、というだけのことなのですが。でもあの人はなんだかわけしり顔で、なんでもわかってるんだというような雰囲気で笑いながらきいているのだから、あんなに悔しい気持ちもなかったのです。けれどわたしは腹をたてながらも、そんなふうにうす笑いをうかべながら人の言葉をきいて、てきとうな説教をしてそれでとても満足そうな顔をしている新しい人を見ていると、この人には、これまでに大事なことを考える機会がきっとなかったのだな、とそう思ったのでした。
そう思うと、なんだか淋しい気持ちになったりしました。そしてそれは、なんだか彼の責任ではないような気がしたのです。だからわたしは、許そうと思ったのです。この人だってあるいは犠牲者なんではないかと、そんなふうに思ったりしたのです。
じつは、学校のみんなにたいしてだって、わたしはだんだんおなじように思えてきています。わたしがあの子たちの犠牲者だとしたら、あの子たちもまたなにかもっと大きなものの犠牲者なのじゃないかと、そう思ったりもするのです。≫■読後、ドストエフスキーの小説を連想した(倫理的な主題をめぐってそれぞれに異なった複数の声が等価に交わされる多声的なテクスト)。